Dope Smokin' Moron

チアリーダー忍者

CHEERLEADER NINJAS
★★★★★ Cheerleader Ninjas (2002)
Cheerleader Ninjas
これはヒドい。ふつうどんなにヒドいヒドいと言っても、低予算なら低予算なりに体裁を繕ってしまうものだ。ましてや2002年製作。機材もテクノロジーも、ロー・バジェットならばそれ相応のやりくりが可能な時代である。なのにこの映画は本当にエド・ウッドの諸作のようにヒドいのだ。スター不在だとかフィルム撮影ではないとかそういう問題ではない。人並みに神経を遣えば起こらないであろう不測の事態が、『チアリーダー忍者』の中ではそれこそデフォルト仕様のようにバンバン頻出する。撮影、録音、編集その他諸々に関して、「マッチング」という言葉が本作の監督であるケヴィン・キャンベルの辞書に無いのは明らかだ。だいたい撮影監督がいるということ自体驚きである。よくもまあDPなどと名乗れたものだ。

とにかくくだらないギャグと下ネタのてんこ盛りで呆れもするが感心もする。イイ年をした大人が高校生に扮して、およそ「品」とか「知性」とかいう言葉とは無縁のギャグを次から次へと乱発するのである。どこから集めて来たのか見た事も無い三流役者達のグダグダ感も孤高の一級品だ。くだらない。あまりにくだらないので俺は笑ってしまった。そう、一度もリモコンに手を伸ばさずに最後まで笑って見てしまったのだ。

ケヴィン・キャンベルに普通の基準での映画監督としての才能が無いことはまあ見てのとおりだ。それでも『チアリーダー忍者』には、とにかく何が何でも面白いものを作ってやろうという気概が溢れている。そしてそれは見ていて決して気分の悪くなるような類いの心意気では無いのだ。更に驚いた事には(本当に驚いた事に)映画が佳境に差しかかるにつれて、キャメラも演出もそして役者陣も奇妙なグラデーションを描いて輝きを増してゆくのである。物語の順序で撮影したはずなどないであろうに、あんなにパッとしなかったカマの敵キャラもギークなトレッキー仲間も、更にはオバハン臭いチアリーダーまでもが、やがて(それなりに)生き生きとした映画の顔になってくるのだ。その様はほとんど感動的ですらある(無論その現象自体笑ってしまうわけだが)。終いにはK・キャンベル監督の作家性すら垣間見えて来る始末。これが全て只の錯覚ということがあるだろうか?

Cheerleader Ninjas
『チアリーダー忍者』が「退屈」とは無縁の作品に仕上がった理由には、くだらないギャグの物量的な成果があるのかもしれないが、もう一つにはその非類型的な映画作法が大きく作用しているように思える。下ネタ主体の学園モノなど大体どの映画も基本路線は似たようなもので、まあなんだかよくわからないアメリカ的下ネタコメディの伝統からはそうそう踏み外したりしないものだ。その点『チアリーダー忍者』は特異である。こちらが勝手に抱くアメリカ的学園コメディの共通前提にあまり乗っかって来てくれない。手持ちの札は全く同じであるにもかかわらずそうなのである。『チアリーダー忍者』はヒドいながらも、というより恐らくはヒドい故にかもしれないが、なんだかあまり見た事の無いような映画になっているのだ。それを様式と呼ぶにはいささか無理があるとしても、他の誰の物でもない確かな刻印を焼き付ける事にK・キャンベル監督は間違いなく成功している。なにもダメなところばかりがエド・ウッド的というわけでは無いのだ。

確かに所謂サイテー映画ではある。どこをどう見ても悲惨な出来の作品だ。だがしかし、タダ単にヒドいだけでは終わらないガッツが本作にあることもまた事実だ。スクリーンの前に座った観客を一秒たりとも退屈させまいと、ゴミはゴミなりにホネのあるところを見せるのだ。『チアリーダー忍者』よりも何十倍、何百倍もの大金を注いだ大作で、面白くもなければハートすら無いなんて例はそれこそ腐るほどある。そういう映画を作った人間の名前はちゃんと憶えておいて華麗にスルーするというのは、貧乏人映画ファンとしての基本である。だがリモコンの早送りボタンに敬意を払うK・キャンベル監督の第二作(あるのだ!)を俺は是非とも見てみたい。次作(ホラー!)の日本配給を期待する意味を込めて、誰からも顧みられることのないこの作品に身びいきでを上乗せしたところで別に罪にはならないだろう。どうせ誰も読んでねえし。
Cheerleader Ninjas
  1. 2005/11/18(金) 20:18:52|
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