THE SUGARLAND EXPRESS★★★★★ The Sugarland Express (1974)

またしてもサイアクの邦題(『続・激突! カージャック』)を付けられた『ザ・シュガーランド・エクスプレス』は『激突』の続編でもなんでもない。この映画、十数年ぶりに観たような気がする。時間をおいて繰り返し観ることによってより深みが増す作品と、逆に観るたびに感動が目減りしてゆく作品があるが、『ザ・シュガーランド・エクスプレス』は疑いなく前者だ。撮影監督のヴィルモス・スィグモントは後にこう語っている。
「自分にとって最高の経験の一つだ。並外れた映画を撮ってるんだという実感もあった」まさしく、この映画は並外れている。
群像劇というわけでもないのに、『ザ・シュガーランド・エクスプレス』は主人公を一人の登場人物に特定するのが難しい。映画はルー・ジーンとクロヴィスの物語として幕を開け、タナー警部とスライド巡査の物語として幕を閉じる。愛すべき無軌道な若いカップルにやがて訪れる悲劇を受け止めるのが、(ドラマ的には)当事者ではない二人の警官であるというレトリックによって、本来受け入れがたいはずのこの映画の結末は、いくらか救いのあるものとして我々の目の前に差し出される。観客は二人の警官に支えられながらも、「受け入れざるを得ない」と感じて、ある種の心地よい諦めとともに映画を観終えることが出来るのだ。この辺が実にスピルバーグらしく、ファンとしては感動すら憶える。

主要なキャラクターは前述の四人。二人は犯罪者、二人は警官だ(四人の役者はそれぞれ全員が素晴らしい)。犯罪者は悪、警官は善。あるいは無法者は自由、権力者は支配。どちらのポジションもフィクションの中では入れ替え可能だろう。だがこの映画に出てくる四人は全員が、およそ悪党と呼ぶには程遠い人間ばかりだ。対立している者同士が実は同じ人間であるということによって、この作品は「限定的なユートピア」の構図を(ある時点まで)笑いとともに描き出すことに成功している。実際映画を見るとわかるが、この四人は立場こそ異なれど明らかに同じ「不自由さ」を共有している。本作で描かれる「不自由さ」は「法」又は「システム」に由来する。
法の不自由と最も付き合いが長いのはタナー警部だ(ポプリン夫妻の悪行に救われるように、居心地の悪い法廷から逃げ出すタナーを見よ)。彼はその不自由さの正体を熟知しているようだ。長年の付き合いの中でその抜け穴や飼いならす術を模索し、結果自分の居場所を手に入れることによってここまで生き延びてきた男がタナーだ。いっぽう、融通の利かない新人パトロール警官として登場するマックスウェル・スライド巡査は、法を司る立場にありながら法のワク内では自分の良心が必ずしも有効に機能しないことを思い知ることになる。

だがルー・ジーンとクロヴィスのポプリン夫妻。若く無軌道なこの二人は世界の不自由さが何に由来するのか無自覚に過ぎた。そんな二人をなんとかして救おうと、タナー警部は法に馴染めない法の番人として、可能な限り穏当な着地点を模索する。なんとなれば二人が自分の同類であることを知っているから、簡単に見捨てることが出来ないのだ。言い換えれば、適度に諦めることで手に入れた自分の居場所を、あるいは二人のならず者にも教えることが出来るかもしれない。そうタナー警部は考えている。その知恵を身につけずして、二人が今のままこの世界で生きていくことの不可能さを彼は知っているのだ。
観客はといえば、最初からルー・ジーンとクロヴィスの味方だ。確かに二人は法を犯す。だがしかし、二人の(というかルー・ジーンの)無軌道を支えるのが無法者の酔狂ではなく、世間知らずで無邪気な正義感といったところがポイントなのだ。ルー・ジーンは自分の息子を取り戻したい一心で警官のピストルを奪う。母親が我が子を取り戻すために手段を選ばないことの何がいけない? クロヴィスはといえば、愛するルー・ジーンとずっと一緒に居たいだけ。好きな女の子を喜ばせて何が悪い? そう、何も悪いことなど無い。だが二人は法を破った。「だから二人を罰せよ」、なんてことをいう観客はまずいないだろう。この時点で二人の主人公は早くも、我々の抑圧された自由を慰める生け贄としての地位をガッチリと確保する。

二人(三人)の逃避行はメディアの後押しによって即席の祭りを作り出す。退屈な日常に突如として出現した生け贄の儀式に、人々は貢ぎ物を携えカタルシスを求めて群がる。民衆が共謀したそのカタルシスを、瞬間的にはクロヴィスとルー・ジーンも味わうかのように見える(少なくともルー・ジーンは確かに味わう)。だがその代償を支払うのも、やはり他ならぬこの二人なのだ。クロヴィスはそういった違和を敏感に感じ取る。最初は二人を祝福してくれる存在の彼ら「祭りの参加者」が、やがて「暴徒」と紙一重に見えてくるように描かれるあたり、スピルバーグの視線はここでも確かだ。
パトカーの大群を撒いた夜。わずかな安らぎの中でクロヴィスは、ドライブイン・シアターのスクリーンに映るルーニー・テューンズに、破滅的な逃避行の行く末を予感する。クロヴィスが奇妙なのは、彼がそもそもの最初から勝算など信じていないように見える点だ。だいたいクロヴィスにはこれといった展望も無いし、動機はといえば倫理や使命感に支えられているというわけでもない。ただただルー・ジーンが望むがゆえにクロヴィスはそうするのだ。ルー・ジーンが十分に賢いのならばそれもいい。国境の果てメキシコを目指す二人は、だがゲーム盤を変える前にルールを破ってしまった。法は権力の外側にいる違反者に対して容赦無く罰を与える。

自分の頭で考えた「善いアイデア」で解決を試みる人間は、この映画の中で全員が全員敗者となる。それは「善いアイデア」ではあっても「賢い方法」では無かった。ルールによって護られた世界では、そのルールが牙を剥くこともある。そこでは「事情」などというものは考慮してもらえない。この世界でルールに馴染めない者達はどのような代償を支払うことになるのか。その対価は正当たりうるのか。そんな問いに対してこの映画が明快な回答を出すわけではない。だがルールは概ね有効に機能しているのだ、たぶん。そのことを認めた上で、ある種の人間にとってこの世界は生きづらい、少なくとも自分は窮屈だ、でもどうにも出来ない。そうスピルバーグは語る。
「どうにも出来なさ」を身にしみて知るタナー警部が、「どうにも出来なさ」を初めて味わうスライド巡査に銃を返す。スライド巡査は銃を手にただ立ちすくむ。そうすることしか出来無いのだ。若き法の番人が味わった「どうにも出来なさ」に共感を覚えた人間にとって、この世界の自由は法で護られ不自由は法によって創られているのかもしれない。システムの恩恵を享受する人間の諦めが描かれたこの映画は、スピルバーグの全キャリアにおいて例外的に特殊な位置を占める。『ザ・シュガーランド・エクスプレス』は、スピルバーグが「システムの内側で人畜無害のフリをして好きなことをやってやるぞ」というストレートな告白をした唯一の作品だ。殺される前に「賢い方法」を手に入れたスピルバーグの分裂症的作家性は、ここでひっそりとネタバラしされている。若干26才の天才による、恐るべき劇場用映画デビュー作だ。

- 2007/01/03(水) 01:15:29|
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WATTSTAX★★★★★ Wattstax (1973)
※メモ収録曲は以下
What You See Is What You Get ー The Dramatics
Oh La De Da ー The Staple Singers
We The People ー The Staple SingersStar Spangled Banner ー Kim Weston
Lift Every Voice & Sing ー Kim Weston
Someone Greater Than You & I ー Jimmy Jones
Lying On The Truth ー Rance Allen Group
Peave Be Still ー The EmotionsOld Time Religion ー William Bell
ー Louise McCord
ー Debra Manning
ー Eric Mercury
ー Freddy Robinson
ー Lee Sain
ー Ernie Hines
ー Little Sonny
ー Newcomers
ー Eddie Floyd
ー Temprees
ー Frederick Knight
Respect Yourself ー The Staple Singers
Son Of Shaft ー Bar Kays
I'll Sing The Blues For You ー Albert King
Walking The Backstreet & Crying ー Little MiltonJody ー Johnnie TaylorI May Not Be What You Want ー Mel & TimPicking Up The Pieces ー Carla Thomas
Breakdown ー Rufus Thomas
Funky Chicken ー Rufus Thomas
If Loving You Is Wrong I Don't Want Be Right ー Luther IngramShaft ー Issac Hayes
Soulsville ー Issac Hayes

基本的にはワッツタックス・コンサートのライブ・ステージ映像だが
What You See Is What You Get
Oh La De Da
We The People
I May Not Be What You Wantの4曲はBGM。
Peave Be Still は教会でのパフォーマンス映像。
Walking The Backstreet & Crying は口パクのプロモ風クリップ。
Jody はサミット・クラブでのパフォーマンス映像。
If Loving You Is Wrong I Don't Want Be Right は一見ワッツタックスでの映像のように見えるが実際は別撮り。サミット・クラブでのパフォーマンスか?
5.0chサラウンド音声はきわめて良好。ただし完走しない曲も多い。ローカルな時代の空気を見事に捉えた非凡なドキュメンタリー映画だ。

- 2006/06/12(月) 21:42:14|
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ストーン君★★★★★ ストーン君 (2006)
あのマスコットは私の(チームの)マスコットでストーン君です!
寺田桜子選手から正式名称を教えていただきました。萌え死にました。ありがとうさっちゃん!
冬スポーツ@2ch掲示板 【私達のマスコット】カーリング・寺田桜子6【ストーン君!】カーリングチーム・チーム青森公式サイト
- 2006/04/16(日) 20:50:28|
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もう、ロックなんか聴くな!★★★★★ もう、ロックなんか聴くな! 著:岩見吉朗 (1991)
今回のテキストもまた1991年のロッキング・オンに掲載されたもので、またしても何月号かはわからない。著者の岩見吉朗氏は当時フリーの音楽ライターのはずで、既にROの編集部にはいなかったと思う。当時読んだ時も感動したけれど、今読んでもいい文章だなと思う。色褪せてもいないと思う。因みにブラウザ上で読みやすいよう、勝手ながら一部改行させてもらいました。
もう、ロックなんか聴くな! 著:岩見吉朗
セックス・ピストルズの『アナーキー・イン・ザ・UK』を聴いて、とんでもなく興奮したのは中学一年生の時だ。全身が総毛立つ、なんてことが本当にあるとは知らなかった。金縛りというか、呼吸困難というか、大袈裟だとは思うが何かそんな感じだった。
子供で、世間知らずで、凄く馬鹿だったので、こんなに格好いいんだからアナーキズムというのは、何よりも正しいことだと思った。辞書で引いてみたら「無政府主義」と書かれてあった。「無政府主義者」はアナーキストだ。よし、俺は将来アナーキストになろう! とそのとき思った。もっともクロポトキンも大杉栄も知らなかった。かと言って何の勉強もしなかった。その時そう思っただけだ。結局、その時自分にとって本当に大事なことは、柔道の黒帯を取ることだったりした。そして、そのまんまずるずる。
今の私はアナーキストではない。それに準ずるような人間でもない。大概の人は、そりゃそうだ、と思うだろう。自分だって、今頃MSGで10日間連続ライヴをやってるはずだったんだ、とか言ってくれるかもしれない。そりゃそうだ。理想と現実どころか、妄想と現実にギャップがあるのは当たり前だ。今、必要なのは、より現実的な目標の達成および幸福の獲得である。うん、そりゃそうだ。当たり前だ。

だが、多分そんな考え方は大間違いなのだ。どうして、理想でも目標でもなく妄想なのか。何のことはない、他ならぬ自分自身が妄想のレベルにまで貶めただけだ。黒帯を取っても、成績が一番になっても、総毛立ったりなんか全然しなかった。それなら、自分にとっての最高の生理に誠実であるべきだったのだ。あの時から15年、気が狂れそうなくらい沢山の時間がただ無駄に過ぎていった。悪夢のようだ。絶対、自分はアナーキストになるべきだったのだ。
ロックンロールは無力だ。何も変えることが出来ない。今やそこらへんのガキでも当たり前のように口にする。だが、そんなのは大嘘だ。無力なのは、何も変えることが出来ないのは、いつだってリスナーの方だった。だって単純な話じゃないか。『アナーキー・イン・ザ・UK』を聴いて興奮した人間が、全員アナーキストになってたら世界は変わっていたはずなのだ。オナニーを覚えたてのガキなんかが聴くくらいなら、宮沢喜一が聴くべきだった。そしたら今日あたり、日本は無政府主義宣言をしていたかもしれない。リスナーが無力じゃなきゃ、世界はロックで変わるのだ。
変革について語るのは、常に行動者の側だった。行動の幻想性無力性について告白するのも、まず最初は行動者ないしは元・行動者の側だった。それ以外の人間は、ただ聞いていただけだ。何もやっていないくせに、頭の悪い人間に聞き覚えの知識をひけらかしていただけである。あんなことをやっても無駄だ、あれだったら有効性がある、とか品定めを施しながら。結局自分はそうした人間達の側にいるとは、全くもって胸糞悪い。てめえがだらしないだけに尚更だ。
お前らなんかと共存したくなかった
お前らに教えられたのは
窒息するほどの退屈さと
安っぽい夢に漂流することだけ
そんなものは何の役にも立ちゃしない
(『モータウン・ジャンク』)
マニック・ストリート・プリーチャーズの存在はある意味で屈辱的だ。彼らの登場は、まるで自分が置き去りにしたイメージが復讐にやってきたように思えた。『モータウン・ジャンク』は一聴した段階ではロック批判だ。今やモータウンはクズだし、ジョン・レノンは無効だ、と。だが「ロックンロールなんて何の役にも立ちゃしない」と、まごうことなきロックンロール・チューンの中で歌うことの倒錯をどう見るか。今やロックにはそれしか歌うことが出来ない?その通りだろう。でも、そうなっちまったのは誰のせいなのだ?ただの死体をあざ笑い、ただのレコード会社をクズだと叫ぶこと。それだけに目的があるとは思えない。
「お前らにとって、ロックンロールは何の役にも立ちゃしない。だからもう聴くなよ」。マニックスは多分そう言いたかったのだ。『アナーキー・イン・ザ・UK』を聴いてもアナーキストにならなかった奴には、ロックを聴く必要なんかない、ということだ。存在したくなかった「お前ら」とは、腐臭を放つロックンロール・ドリームであると同時に、それをBGMや慰み者の消費材として延命させる無為無策無力無能のロック・リスナーという意味も孕んでいるはずだ。リッチー・エドワーズ言うところの「無神経な中産階級」「安易に消費文化へ逃げ込む若者達」を「お前ら」はいつまで続けるのだ、と。
評論家から、ビッグ・スターから、ロックは無力だって教えてもらったんだろう? じゃあ、聴くな……まさに最後通告のアジテーション。彼らはリスナーに、ロックに対してひいては自分自身の生に対してどう対峙するのか、という問いを突きつける。マニックスは存在そのものが、最高のラブソングだ。リスナーに向かって、ここまであからさまにコミュニケーションをもとめてくるロック・アーティストは稀である。

そう遠くない将来にリリースされるだろう解散デビューアルバムの前後、マニックスに関して様々なことが語られると思う。過激な言動云々よりも、いいメロディのポップ・チューンを書けるバンドとして気に入ってますね、と訳知り顔の音楽至上主義者は言うだろうか。所詮表現スタイルが既成ロックの域を脱していない、とロック進化論者は言うだろうか。なんとでも言い様はあるだろうが、マニックスの問いに呼応するその人なりの生が提示されなければ、結局何も言わなかったと同じことだ。と言うか、マニックスに限らず全てにおいて、他社に発語するとはそういうことであるが。まあ、とにかく、どうなることか。
いずれにせよ、今後の状況が全く楽観視出来ないものであることは、マニックスの知性なら自明だろう。だが彼らは今、面白くて仕様がないんではないか。俺達は動いたんだ。やりたいことをやっているぜ、と。
全くその通りだ。結局、やりたいことをやるだけだ。ロックなんか別にどうなっても構わない。自分だけが心底気の済むように生きていたいのだ。何の言い訳も保留もない自己を組織し、誇り高く面白おかしく暮らしたい。ゴミのような15年を取り戻すためでなく、ここにいる自分の現在を余さず鷲掴みにするために。今まであった嫌なことや悔しいこと、そんなのはみんななかったことにしてやる。あとは、好き嫌いだけでやればいい。どれだけ人を殺したって、死んだら誰も覚えちゃいない。
そうすりゃ多分、人生はバラ色だ。

- 2006/03/11(土) 04:42:12|
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